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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

るらん。不軽軽毀の者は不軽菩薩に信伏随従せしかども、重罪いまだのこりて千劫阿鼻に堕ちぬ。されば、弘法・慈覚・智証等は、たといひるがえす心ありとも、なお法華経をよむならば重罪きえがたし。いおうや、ひるがえる心なし。また法華経を失い、真言教を昼夜に行い、朝暮に伝法せしをや。
 世親菩薩・馬鳴菩薩は、小をもって大を破せる罪をば、舌を切らんとこそせしか。世親菩薩は仏説なれども阿含経をばたわぶれにも舌の上におかじとちかい、馬鳴菩薩は懺悔のために起信論をつくりて小乗をやぶり給いき。嘉祥大師は天台大師を請じ奉って、百余人の智者の前にして五体を地になげ、遍身にあせをながし、紅のなんだをながして、「今よりは弟子を見じ。法華経をこうぜじ。弟子の面をまぼり法華経をよみたてまつれば、我が力のこの経を知るににたり」とて、天台よりも高僧・老僧にておわせしが、わざと人のみるとき、おいまいらせて河をこえ、こうざにちかづきて、せなかにのせまいらせて高座にのぼせたてまつり、結句、御臨終の後には隋の皇帝にまいらせ給いて、小児が母におくれたるがごとくに足をすりてなき給いしなり。
 嘉祥大師の法華玄を見るに、いとう法華経を謗じたる疏にはあらず。ただし、法華経と諸大乗経とは門は浅深あれども心は一つとかきてこそ候え。これが謗法の根本にて候か。華厳の澄観も真言の善無畏も、大日経と法華経とは理は一つとこそかかれて候え。嘉祥とがあらば、善無畏も脱れがたし。
 されば、善無畏三蔵は中天の国主なり。位をすてて他国にいたり、殊勝・招提の二人にあいて法華経をうけ、百千の石の塔を立てしかば、法華経の行者とこそみえしか。しかれども、大日経を習いしよりこのかた、法華経を大日経に劣るとやおもいけん、始めはいとうその義もなかりけるが、漢土に