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につかわして、先生の所持の一巻の法華経をとりよせ給いて持経と定め、その後、人王第三十七代に孝徳天皇の御宇に三論宗・華厳宗・法相宗・俱舎宗・成実宗わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に律宗わたる。已上六宗なり。孝徳より人王第五十代の桓武天皇にいたるまでは十四代一百二十余年が間は、天台・真言の二宗なし。
桓武の御宇に最澄と申す小僧あり。山階寺の行表僧正の御弟子なり。法相宗を始めとして六宗を習いきわめぬ。しかれども、仏法いまだ極めたりともおぼえざりしに、華厳宗の法蔵法師が造りたる起信論の疏を見給うに、天台大師の釈を引きのせたり。この疏こそ子細ありげなれ。この国に渡りたるか、またいまだわたらざるかと不審ありしほどに、ある人にといしかば、その人の云わく「大唐の揚州竜興寺の僧・鑑真和尚は、天台の末学、道暹律師の弟子。天宝の末に日本国にわたり給いて小乗の戒を弘通せさせ給いしかども、天台の御釈持ち来りながらひろめ給わず。人王第四十五代聖武天皇の御宇なり」とかたる。その書を見んと申されしかば、取り出だして見せまいらせしかば、一返御らんありて生死の酔いをさましつ。この書をもって六宗の心を尋ねあきらめしかば、一々に邪見なることあらわれぬ。たちまちに願を発して云わく「日本国の人、皆謗法の者の檀越たるか。天下一定乱れなんず」とおぼして六宗を難ぜられしかば、七大寺・六宗の碩学蜂起して、京中烏合し、天下みなさわぐ。七大寺・六宗の諸人等、悪心強盛なり。
しかるを、去ぬる延暦二十一年正月十九日に天皇高雄寺に行幸あって、七寺の碩徳十四人、善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等十有余人を召し合わ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(010)報恩抄 | 建治2年(’76)7月21日 | 55歳 | 浄顕房・義浄房 |