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を刎ねられ、仏陀密多・竜樹菩薩等は赤き幡を七年・十二年さしとおす。馬鳴菩薩は金銭三億がかわりとなり、如意論師はおもいじにに死す。これらは正法一千年の内なり。
像法に入って五百年、仏の滅後一千五百年と申せし時、漢土に一人の智人あり。始めは智顗、後には智者大師とごうす。法華経の義をありのままに弘通せんと思い給いしに、天台已前の百千万の智者しなじなに一代を判ぜしかども、詮じて十流となりぬ。いわゆる南三北七なり。十流ありしかども、一流をもって最とせり。いわゆる南三の中の第三の光宅寺の法雲法師これなり。
この人は一代の仏教を五つにわかつ。その五つの中に三経をえらびいだす。いわゆる華厳経・涅槃経・法華経なり。一切経の中には華厳経第一、大王のごとし。涅槃経第二、摂政・関白のごとし。第三法華経は公卿等のごとし。これより已下は万民のごとし。この人は本より智慧かしこき上、慧観・慧厳・僧柔・慧次なんど申せし大智者より習い伝え給えるのみならず、南北の諸師の義をせめやぶり、山林にまじわりて法華経・涅槃経・華厳経の功をつもりし上、梁の武帝召し出だして内裏の内に寺を立て、光宅寺となづけてこの法師をあがめ給う。
法華経をこうぜしかば、天より花ふること在世のごとし。天監五年に大旱魃ありしかば、この法雲法師を請じ奉って法華経を講ぜさせまいらせしに、薬草喩品の「其雨普等、四方俱下(その雨はあまねく等しくして、四方にともに下る)」と申す二句を講ぜさせ給いし時、天より甘雨下りたりしかば、天子、御感のあまりに現に僧正になしまいらせて、諸天の帝釈につかえ、万民の国王をおそるるがごとく我とつかえ給いし上、ある人夢みらく、この人は過去の灯明仏の時より法華経をこうぜる人なり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(010)報恩抄 | 建治2年(’76)7月21日 | 55歳 | 浄顕房・義浄房 |