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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

なり。釈尊の因位は既に三千塵点劫より已来、娑婆世界の一切衆生の結縁の大士なり。この世界の六道の一切衆生は、他土の他の菩薩に有縁の者一人もこれ無し。法華経に云わく「その時法を聞きし者は、各諸仏の所に在り」等云々。天台云わく「西方は仏別にして縁異なり。故に子父の義成ぜず」等云々。妙楽云わく「弥陀・釈迦の二仏既に殊なり○いわんや、宿昔の縁別にして化導同じからざるをや。結縁は生のごとく、成熟は養のごとし。生・養の縁異なれば、父子成ぜず」等云々。当世日本国の一切衆生、弥陀の来迎を待つは、譬えば、牛の子に馬の乳を含め、瓦の鏡に天月を浮かべんがごとし。
 また果位をもってこれを論ずれば、諸仏如来、あるいは十劫・百劫・千劫已来の過去の仏なり。教主釈尊は、既に五百塵点劫より已来、妙覚果満の仏なり。
 大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等の尽十方の諸仏は、我らが本師・教主釈尊の所従等なり。天月の万水に浮かぶとはこれなり。華厳経の十方の台上の毘盧遮那、大日経・金剛頂経の両界の大日如来は、宝塔品の多宝如来の左右の脇なり。例せば、世の王の両臣のごとし。この多宝仏も寿量品の教主釈尊の所従なり。この土の我ら衆生は、五百塵点劫より已来、教主釈尊の愛子なり。不孝の失によって今に覚知せずといえども、他方の衆生には似るべからず。有縁の仏と結縁の衆生とは、譬えば天月の清水に浮かぶがごとく、無縁の仏と衆生とは、譬えば聾者の雷の声を聞き、盲者の日月に向かうがごとし。
 しかるに、ある人師は釈尊を下して大日如来を仰崇し、ある人師は世尊は無縁なり阿弥陀は有縁な