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の大士、小・権をもって縁となして、在世の下種これを脱せしむ。謗多くして熟益を破るべきが故にこれを説かず。例せば、在世の前四味の機根のごとし。像法の中・末に、観音・薬王、南岳・天台等と示現し出現して、迹門をもって面となし本門をもって裏となして、百界千如・一念三千その義を尽くせり。ただ理具のみを論じて、事行の南無妙法蓮華経の五字ならびに本門の本尊、いまだ広くこれを行わず。詮ずるところ、円機有って円時無きが故なり。
今、末法の初め、小をもって大を打ち、権をもって実を破し、東西共にこれを失い、天地顚倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天その国を棄ててこれを守護せず。この時、地涌の菩薩始めて世に出現し、ただ妙法蓮華経の五字のみをもって幼稚に服せしむ。「謗に因って悪に堕つれば、必ず因って益を得」とは、これなり。我が弟子、これを惟え。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場にも来らず、双林最後にも訪わず。不孝の失これ有り。迹門の十四品にも来らず、本門の六品には座を立つ。ただ八品の間にのみ来還せり。かくのごとき高貴の大菩薩、三仏に約束してこれを受持す。末法の初めに出でたまわざるべきか。当に知るべし、この四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。
問うて曰わく、仏の記文はいかん。
答えて曰わく、「後の五百歳、閻浮提に広宣流布せん」と。天台大師、記して云わく「後の五百歳、遠く妙道に沾わん」。妙楽、記して云わく「末法の初め、冥利無きにあらず」。伝教大師云わく「正像やや過ぎ已わって、末法はなはだ近きに有り」等云々。「末法はなはだ近きに有り」の釈は、我が時
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(006)如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄) | 文永10年(’73)4月25日 | 52歳 |