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等をもって縁となして法華に入る。例せば、在世の前四味の者のごとし。
また、本門十四品の一経に序・正・流通有り。涌出品の半品を序分となし、寿量品と前後の二半と、これを正宗となす。その余は流通分なり。その教主を論ずれば、始成正覚の釈尊にあらず。説くところの法門もまた天地のごとし。十界久遠の上に国土世間既に顕れ、一念三千ほとんど竹膜を隔つ。また迹門ならびに前四味・無量義経・涅槃経等の三説はことごとく随他意の易信易解、本門は三説の外の難信難解・随自意なり。
また、本門において序・正・流通有り。過去大通仏の法華経より、乃至現在の華厳経、乃至迹門十四品、涅槃経等の一代五十余年の諸経、十方三世の諸仏の微塵の経々は皆、寿量の序分なり。一品二半よりの外は小乗教・邪教・未得道教・覆相教と名づく。その機を論ずれば、徳薄・垢重・幼稚・貧窮・孤露にして禽獣に同ずるなり。
爾前・迹門の円教なお仏因にあらず。いかにいわんや大日経等の諸小乗経をや。いかにいわんや華厳・真言等の七宗等の論師・人師の宗をや。与えてこれを論ずれば、前三教を出でず。奪ってこれを云わば、蔵・通に同じ。たとい法は甚深と称すとも、いまだ種・熟・脱を論ぜず。「還って灰断に同じ。化に始終無し」とは、これなり。譬えば、王女たりといえども、畜種を懐妊すれば、その子なお旃陀羅に劣れるがごとし。これらはしばらくこれを閣く。
迹門十四品の正宗の八品は、一往これを見るに、二乗をもって正となし、菩薩・凡夫をもって傍となす。再往これを勘うれば、凡夫・正像末をもって正となす。正像末の三時の中にも、末法の始めを
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(006)如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄) | 文永10年(’73)4月25日 | 52歳 |