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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 夫れ、始め寂滅道場・華蔵世界より沙羅林に終わるまで五十余年の間、華蔵・密厳・三変・四見等の三土・四土は、皆、成劫の上の無常の土に変化するところの方便・実報・寂光、安養・浄瑠璃・密厳等なり。能変の教主涅槃に入りぬれば、所変の諸仏随って滅尽す。土もまたもってかくのごとし。
 今、本時の娑婆世界は、三災を離れ四劫を出でたる常住の浄土なり。仏、既に過去にも滅せず、未来にも生ぜず、所化もって同体なり。これは即ち己心の三千具足、三種の世間なり。迹門十四品にはいまだこれを説かず。法華経の内においても時機未熟の故なるか。
 この本門の肝心・南無妙法蓮華経の五字においては、仏なお文殊・薬王等にもこれを付嘱したまわず。いかにいわんや、その已下をや。ただ地涌千界を召して、八品を説いてこれを付嘱したもう。
 その本尊の為体は、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士たる上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸の菩薩は万民の大地に処して雲客月卿を見るがごとく、十方の諸仏は大地の上に処したもう。迹仏・迹土を表する故なり。
 かくのごとき本尊は在世五十余年にこれ無し。八年の間にもただ八品に限る。正像二千年の間は、小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士となし、権大乗ならびに涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等をもって脇士となす。これらの仏をば正像に造り画けども、いまだ寿量の仏有さず。末法に来入して始めてこの仏像出現せしむべきか。
 問う。正像二千余年の間は四依の菩薩ならびに人師等、余仏、小乗・権大乗・爾前・迹門の釈尊等