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法の中の悪を断じたまえり」等云々。天親菩薩の法華論、堅慧菩薩の宝性論に十界互具これ無く、漢土南北の諸大人師、日本七寺の末師の中にもこの義無し。ただ天台一人のみの僻見なり。伝教一人のみの謬伝なり。故に、清涼国師云わく「天台の謬りなり」。慧苑法師云わく「しかるに、天台は小乗を呼んで三蔵教となし、その名謬濫するをもって」等云々。了洪云わく「天台独りいまだ華厳の意を尽くさず」等云々。得一云わく「咄いかな智公よ。汝はこれ誰が弟子ぞ。三寸に足らざる舌根をもって、覆面舌の所説の教時を謗ず」等云々。弘法大師云わく「震旦の人師等、諍って醍醐を盗んで各自宗に名づく」等云々。
夫れ、一念三千の法門は、一代の権実に名目を削り、四依の諸論師その義を載せず。漢土・日域の人師もこれを用いず。いかんがこれを信ぜん。
答えて曰わく、この難、最も甚だし、最も甚だし。ただし、諸経と法華との相違は経文より事起こって分明なり。未顕と已顕と、証明と舌相と、二乗の成・不、始成と久成と等、これを顕す。
諸論師のことは、天台大師云わく「天親・竜樹、内に鑑みるに泠然にして、外には時の宜しきに適い、各権に拠るところあり。しかるに、人師はひとえに解し、学者はいやしくも執し、ついに矢石を興し、各一辺を保って、大いに聖道に乖けり」等云々。章安大師云わく「天竺の大論すら、なおその類いにあらず。真旦の人師、何ぞ労わしく語るに及ばん。これは誇耀にあらず。法相のしからしむるのみ」等云々。天親・竜樹・馬鳴・堅慧等は内鑑泠然たり。しかりといえども、時いまだ至らざるが故にこれを宣べざるか。人師においては、天台已前は、あるいは珠を含み、あるいは一向にこれを知らず。已後
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(006)如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄) | 文永10年(’73)4月25日 | 52歳 |