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夫れ、智者の弘法三十年、二十九年の間は玄・文等の諸義を説いて五時八教・百界千如を明かし、前の五百余年の間の諸非を責め、ならびに天竺の論師いまだ述べざるを顕す。章安大師云わく「天竺の大論すら、なおその類いにあらず。震旦の人師、何ぞ労わしく語るに及ばん。これは誇耀にあらず。法相のしからしむるのみ」等云々。はかないかな、天台の末学等、華厳・真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて、還って彼らが門家と成りぬ。章安大師、兼ねてこのことを知って、歎いて言わく「この言もし墜ちなば、将来悲しむべし」云々。
問うて曰わく、百界千如と一念三千と差別いかん。
答えて曰わく、百界千如は有情界に限り、一念三千は情・非情に亘る。
不審して云わく、非情に十如是亘るならば、草木に心有って有情のごとく成仏すとなすべしや、いかん。
答えて曰わく、このこと難信難解なり。天台の難信難解に二つ有り。一には教門の難信難解、二には観門の難信難解なり。その教門の難信難解とは、一仏の所説において、爾前の諸経には二乗と闡提とは未来に永く成仏せず、教主釈尊は始めて正覚を成ず。法華経迹本二門に来至したまい、彼の二説を壊る。一仏二言、水火なり。誰人かこれを信ぜん。これは教門の難信難解なり。
観門の難信難解とは、百界千如・一念三千、非情の上の色心二法・十如是これなり。しかりといえども、木画の二像においては外典・内典共にこれを許して本尊となす。その義においては天台一家より出でたり。草木の上に色心の因果を置かずんば、木画の像を本尊に恃み奉ること無益なり。
疑って云わく、草木国土の上の十如是の因果の二法は、いずれの文に出でたるや。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(006)如来滅後五五百歳始観心本尊抄(観心本尊抄) | 文永10年(’73)4月25日 | 52歳 |