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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 弁成の立。我が身叶い難きが故に、しばらく聖道の行を捨閉閣抛して浄土に帰し、浄土に往生し法華を聞いて無生を悟ることを得べきなり。
 日蓮難じて云わく、「我が身叶い難ければ、穢土において法華経等・教主釈尊等を捨閉閣抛し、浄土に至ってこれを悟るべし」等云々とは、いずれの経文に依ってかくのごとき義を立つるや。また「天台宗の報土は分真即・究竟即、浄土宗の報土は名字即乃至究竟即なり」等とは、いずれの経・論・釈に出でたるや。また「穢土においては法華経等・教主釈尊等を捨閉閣抛し、浄土に至って法華経を悟るべし」とは、いずれの経文に出でたるや。
 弁成の立。余の法華等の諸行等を捨閉閣抛して念仏を用いる文は、観経に云わく「仏、阿難に告げたまわく『汝好くこの語を持て。この語を持つとは、即ちこれ無量寿仏の名を持つ』と」文。浄土に往生して法華を聞くということは、文に云わく「観世音・大勢至は大悲の音声をもって、それがために広く諸法実相、罪を除滅する法を説く。聞き已わって歓喜し、ただちに即ち菩提の心を発す」文。余は繁きが故に、しばらくこれを置く。
 また、日蓮難じて云わく、観無量寿経は如来成道四十余年の内なり。法華経は後八箇年の説なり。いかんが已説の観経に兼ねて未説の法華経の名を載せて、捨閉閣抛の可説となすべきや。したがって、「仏、阿難に告げたまわく」等の文に至っては、ただ弥陀念仏を勧進する文なり。いまだ法華経を捨閉閣抛することを聞かず。いかにいわんや、無量義経に、法華経を説かんがために、まず四十余年の已説の経々を挙げて、未顕真実と定め了わんぬ。あに、未顕真実の観経の内に已顕真実の法華経を挙