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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

心の立て様を破して云わく「五つの失有り。謂わく、一には大日経の義釈に違する失、二には金剛頂経に違する失、三には守護経に違する失、四には菩提心論に違する失、五には衆師に違する失なり」。この五つの失を陳ずることなくしてつまり給えり。しかるあいだ、「法華は真言より三重の劣」と釈し給えるが大いなる僻事なり。謗法に成りぬと覚ゆ。
 次に、覚鑁の「法華は真言の履取りに及ばず」と舎利講の式に書かれたるは、舌に任せたる言なり。証拠無き故に、専ら謗法なるべし。
 次に、世を挙げて「密教勝れ、顕教劣る」とこれを許すということ、これひとえに弘法を信じて法を信ぜざるなり。ゆえに、弘法をば安然和尚「五つの失有り」と云って用いざる時は、世間の人はいかように密教勝ると思うべき。そもそも「密教勝れ、顕教劣る」とは、いずれの経に説きたるや。これまた、証拠無きことを世を挙げて申すなり。
 なお難じて云わく、大日経等は、これ中央大日法身にして無始無終の如来なり、法界宮あるいは色究竟天・他化自在天にして菩薩のために真言を説き給えり。法華は釈迦応身、霊山にして二乗のために説き給えり。あるいは釈迦は大日の化身なりとも云えり。成道の時は大日の印可を蒙って唵字の観を教えられ、後夜に仏になるなり。大日如来だにもましまさずば、いかでか釈迦仏も仏に成り給うべき。これらの道理をもって案ずるに、法華より真言勝れたることは云うに及ばざるなり。
 答えて云わく、「法に依って人に依らざれ」の故に、いかようにも経説のように依るべきなり。大日経は釈迦の大日となって説き給える経なり。故に、金光明最勝王経の第一には中央釈迦牟尼と云え