SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

くの時に、四十余年の経を捨てて法華の門を開くがごとし。竜樹菩薩、十住毘婆沙論を造って、一代聖教を難・易の二道に分かてり。難行道とは、三部経の外の諸行なり。易行道とは、念仏なり。
 経論かくのごとく分明なりといえども、震旦の人師この義を知らず。ただ善導一師のみこの義を発得せり。ゆえに、双観経の三輩を観念法門に書いて云わく「一切衆生、根性不同にして上中下有り。その根性に随って、仏は皆無量寿仏の名を専念することを勧む」等云々。この文の意は「菩提心を発し諸の功徳を修す」等の諸行は、他力本願の念仏に値わざりしより以前に修することありけるを、たちまちにこれを捨てよと云うとも、行者用いるべからず。故に、しばらく諸行を許すなり。実には、念仏を離れて諸行をもって往生を遂ぐる者これ無しと書きしなり。
 観無量寿経の「仏、阿難に告げたまわく」等の文を、善導の疏の四にこれを受けて曰わく「上来は定散両門を説くといえども、仏の本願に望めば、意は衆生の一向に専ら弥陀仏の名を称うるに在り」云々。「定散」とは、八万の権実・顕密の諸経を尽くしてこれを摂めて、念仏に対してこれを捨つるなり。善導の法事讃に阿弥陀経の「大・小善根の故」を釈して云わく「極楽は無為涅槃界なり。随縁の雑善にては恐らくは生じ難し。故に、如来をして要法を選び、教えて弥陀を念じ専ら修せしむ」等云々。諸師の中に三部経の意を得たる人は、ただ導一人のみ。
 如来の三部経においてはかくのごとくあれども、正法・像法の時は根機なお利根の故に、諸行往生の機もこれ有りけるか。しかるに、機根衰えて末法と成るあいだ、諸行の機漸く失せ、念仏の機と成れり。さらに、阿弥陀如来は善導和尚と生まれて震旦にこの義を顕し、和尚は日本に生まれて初めは