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陀のごとくは仰がれ給いしか。
水すまば、月影をおしむべからず。風ふかば、草木なびかざるべしや。法華経の行者あるならば、これらの聖者は、大火の中をすぎても、大石の中をとおりても、とぶらわせ給うべし。迦葉の入定もことにこそよれ、いかにとなりぬるぞ。いぶかしとも申すばかりなし。「後の五百歳」のあたらざるか、「広宣流布」の妄語となるべきか、日蓮が法華経の行者ならざるか。法華経を教内と下して別伝と称する大妄語の者をまぼり給うべきか。捨閉閣抛と定めて「法華経の門をとじよ、巻をなげすてよ」とえりつけて法華堂を失える者を守護し給うべきか。仏前の誓いはありしかども、濁世の大難のはげしさをみて、諸天下り給わざるか。日月、天にまします。須弥山いまもくずれず。海の潮も増減す。四季もかたのごとくたがわず。いかになりぬるやらんと、大疑いよいよつもり候。
また諸大菩薩・天人等のごときは、爾前の経々にして記別をうるようなれども、水中の月を取らんとするがごとく、影を体とおもうがごとく、いろかたちのみあって実義もなし。また仏の御恩も深くて深からず。
世尊初成道の時は、いまだ説教もなかりしに、法慧菩薩・功徳林菩薩・金剛幢菩薩・金剛蔵菩薩等なんど申せし六十余の大菩薩、十方の諸仏の国土より教主釈尊の御前に来り給いて、賢首菩薩・解脱月等の菩薩の請いにおもむいて、十住・十行・十回向・十地等の法門を説き給いき。これらの大菩薩の説くところの法門は、釈尊に習いたてまつるにあらず。十方世界の諸の梵天等も来って法をとく、また釈尊にならいたてまつらず。総じて華厳会座の大菩薩・天竜等は、釈尊已前に不思議解脱に住せ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |