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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 下の十四段には、あるいは聖道・難行・雑行をば小善根・随他意・有上功徳等と名づけ、念仏等をもっては大善根・随自意・無上功徳等と名づけて、念仏に対し、末代の凡夫、これを捨てよ、この門を閉じよ、これを閣け、これを抛て等の四字をもって、これを制止す。
 しかして、日本国中の無智の道俗より始めて、大風に草木の従うがごとく皆この義に随って、たちまちに法華・真言等に随喜の意を止め、建立の思いを廃す。しかるあいだ、人ごとに平形の念珠をもって弥陀の名号を唱え、あるいは毎日三万遍・六万遍・十万遍・四十八万遍・百万遍等唱うるあいだ、また他の善根も無く、念仏堂を造ること稲麻・竹葦のごとく、結句は、法華・真言等の智者とおぼしき人々も、皆、あるいは帰依を受けんがために、あるいは往生極楽のために、皆、本宗を捨てて念仏者と成り、あるいは本宗にして念仏の法門を仰げるなり。
 今云わく、日本国中の四衆の人々は、形は異なり替わるといえども、意根は皆一法を行じて、ことごとく西方の往生を期す。仏法繁昌の国と見えたるところに、一つの大いなる疑いを発することは、念仏宗の亀鏡と仰ぐべき智者たち、念仏宗の大檀那たる大名・小名ならびに有徳の者、多分は臨終思うがごとくならざるの由、これを聞き、これを見る。しかるに、善導和尚は「十は即ち十生ず」と定め、十遍乃至一生の間念仏する者は一人も漏れず往生を遂ぐべしと見えたり。人の臨終と善導の釈とは水火なり。
 ここに念仏者会して云わく、往生に四つ有り。一には意念往生。般舟三昧経に出でたり。二には正念往生。阿弥陀経に出でたり。三には無記往生。群疑論に出でたり。四には狂乱往生。観経の下品下