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の法華経の敵の内、いかにいわんや、当世の禅・律・念仏者等は脱るべしや。
経文に我が身符合せり。御勘気をかぼれば、いよいよ悦びをますべし。例せば、小乗の菩薩の未断惑なるが、願兼於業と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見て、かたのごとくその業を造って、願って地獄に堕ちて苦しむに、同じ苦に代われるを悦びとするがごとし。これもまたかくのごとし。当時の責めはたうべくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとおもえば悦びなり。
ただし、世間の疑いといい、自心の疑いと申し、いかでか天扶け給わざるらん。諸天等の守護神は仏前の御誓言あり。法華経の行者には、さるになりとも法華経の行者とごうして、早々に仏前の御誓言をとげんとこそおぼすべきに、その義なきは我が身法華経の行者にあらざるか。この疑いはこの書の肝心、一期の大事なれば、処々にこれをかく上、疑いを強くして答えをかまうべし。
季札といいし者は、心のやくそくをたがえじと、王の重宝たる剣を徐君が墓にかく。王寿といいし人は河の水を飲んで金の鵝目を水に入れ、弘演といいし人は腹をさいて主君の肝を入る。これらは賢人なり。恩をほうずるなるべし。
いわんや、舎利弗・迦葉等の大聖は、二百五十戒・三千の威儀一つもかけず、見思を断じ三界を離れたる聖人なり。梵帝諸天の導師、一切衆生の眼目なり。しかるに、四十余年が間「永不成仏」と嫌いすてはてられてありしが、法華経の不死の良薬をなめて、燋れる種の生い、破れる石の合い、枯れたる木の花菓なんどせるがごとく、仏になるべしと許されて、いまだ八相をとなえず。いかでか、こ
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |