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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

本の故にも父子なり、末の故にも父子なり。父子の天性は本末これ同じ。これに由って己心と仏心とは異ならずと観ずるが故に、生死の夢を覚まして本覚の寤に還るを、即身成仏と云うなり。即身成仏は、今、我が身の上の天性・地体なり。煩いも無く、障りも無し。衆生の運命なり、果報なり、冥加なり。
 夫れ以んみれば、夢の時の心を迷いに譬え、寤の時の心を悟りに譬う。これをもって一代聖教を覚悟するに、跡形も無き虚夢を見て心を苦しめ、汗水を成して驚きぬれば、我が身も家も臥所も一所にて異ならず、夢の虚と寤の実との二事を目にも見、心にも思えども、所もただ一所なり、身もただ一身なり。二つの虚と実との事有るは、これをもって知るべし。九界生死の夢見る我が心も仏界常住の寤の心も異ならず。九界生死の夢見る所が仏界常住の寤の所にて変わらず。心法も替わらず、在所も差わざれども、夢は皆虚事なり、寤は皆実事なり。
 止観に云わく「昔荘周というもの有り。夢に胡蝶と成って一百年を経たり。苦は多く楽は少なく、汗水を成して驚きぬれば、胡蝶にも成らず百年をも経ず、苦も無く楽も無し。皆虚事なり。皆妄想なり」已上取意。弘決に云わく「無明は夢の蝶のごとく、三千は百年のごとし。一念実無きはなお蝶にあらざるがごとく、三千もまた無きこと年を積むにあらざるがごとし」已上。この釈は即身成仏の証拠なり。夢に蝶と成る時も荘周は異ならず、寤に蝶と成らずと思う時も別の荘周無し。我が身を生死の凡夫なりと思う時は、夢に蝶と成るがごとく、僻目・僻思いなり。我が身は本覚の如来なりと思う時は、本の荘周なるがごとし。即身成仏にして、蝶の身をもって成仏すと云うにはあらざるなり。蝶