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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

覚の如来にて、この外には法無し。この一法ばかり十方の浄土に有って、余法有ることなし。故に「無分別の法」と云うはこれなり。この一乗妙法の行をば取らずして、全く浄土には無き方便の教えを取って成仏の行となさんは、迷いの中の迷いなり。我仏に成って後に穢土に立ち還って、穢土の衆生を仏法界に入らしめんがために、次第に誘入して方便の教えを説くを、化他の教えとは云うなり。故に、権教と言い、また方便とも云う。
 化他の法門の有り様、大体、略を存して、かくのごとし。
 二に自行の法とは、これ法華経八箇年の説なり。この経は寤の本心を説きたもう。ただ、衆生の思い習わせる夢の中の心地なるが故に、夢の中の言語を借りて寤の本心を訓うるなり。故に、語は夢の中の言語なれども、意は寤の本心を訓う。法華経の文と釈との意かくのごとし。これを明らめ知らずんば、経の文と釈の文とに必ず迷うべきなり。ただし、この化他の夢の中の法門も寤の本心に備われる徳用の法門なれば、夢の中の教えを取って寤の心に摂むるが故に、四十二年の夢の中の化他・方便の法門も妙法蓮華経の寤の心に摂まって、心の外には法無し。これを法華経の開会とは云うなり。譬えば衆流を大海に納むるがごときなり。
 仏の心法妙と衆生の心法妙と、この二妙を取って己心に摂むるが故に、心の外に法無きなり。己心と心性と心体との三つは、己身の本覚の三身如来なり。これを経に説いて云わく「如是相〈応身如来〉・如是性〈報身如来〉・如是体〈法身如来〉」。これを三如是と云う。この三如是の本覚の如来は、十方法界を身体となし、十方法界を心性となし、十方法界を相好となす。この故に、我が身は本覚の三身如来の