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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

けて釈するに、「しかるにまた、ともに色香中道を許せども、無情仏性は耳を惑わし心を驚かす」云々。華厳の澄観が天台の一念三千をぬすんで華厳にさしいれ、「法華・華厳ともに一念三千なり。ただし華厳は頓々、さきなれば。法華は漸頓、のちなれば。華厳は根本、さきをしぬれば。法華は枝葉」等というて、「我、理をえたり」とおもえる意、山のごとし。しかりといえども、一念三千の肝心、草木成仏を知らざることを、妙楽のわらい給えることなり。
 今の天台の学者等、「我、一念三千を得たり」と思う。しかりといえども、法華をもってあるいは華厳に同じ、あるいは大日経に同ず。その義を論ずるに、澄観の見を出でず、善無畏・不空に同ず。詮をもってこれを謂わば、今の木絵二像を真言師をもってこれを供養すれば、実仏にあらずして権仏なり。権仏にもあらず、形は仏に似たれども、意は本の非情の草木なり。また本の非情の草木にもあらず、魔なり、鬼なり。真言師が邪義、印・真言と成って、木絵二像の意と成れるゆえに。例せば、人の思い変じて石と成る、俱留と黄夫石がごとし。法華を心得たる人、木絵二像を開眼供養せざれば、家に主のなきに盗人が入り、人の死するにその身に鬼神入るがごとし。今、真言をもって日本の仏を供養すれば、鬼入って人の命をうばう。鬼をば奪命者という。魔入って功徳をうばう。魔をば奪功徳者という。鬼をあがむるゆえに、今生には国をほろぼす。魔をたっとむゆえに、後生には無間獄に堕つ。
 人死すれば魂去り、その身に鬼神入り替わって子孫を亡ぼす。餓鬼というは我をくらうという、これなり。智者あって法華経を讃歎して骨の魂となせば、死人の身は人身、心は法身。生身得忍といえる法門これなり。華厳・方等・般若の円をさとれる智者は、死人の骨を生身得忍と成す。涅槃経に