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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

なす。もし本門に約せば、『我は本菩薩の道を行ず』の時を指してもって『積劫』となし、本成仏の時をば、もって『妙悟』となす。本迹二門はただこれこの十法を求悟するのみ」文。始めの一文は本門に限ると見えたり。次の文は正しく本迹に亘ると見えたり。止観は本迹に亘るということ、文証これに依るなりと云えり。
 次に、檀那流には、止観は迹門に限るという証拠は、弘決の三に云わく「還って教味を借りて、もって妙円を顕す○故に知んぬ、一部の文共に円乗開権の妙観を成ずることを」文。この文に依れば、止観は法華の迹門に限るということ、文に在って分明なり。
 両流の異義替われども、共に本迹を出でず。
 当世の天台宗、いずくより相承して、「止観は法華経に勝る」と云うや。ただし予が所存は、止観・法華の勝劣は天地雲泥なり。
 もし与えてこれを論ぜば、止観は法華迹門の分斉に似たり。その故は、天台大師の己証とは、十徳の中の第一は「自ら仏乗を解す」、第九は「玄く法華の円意を悟る」なり。霊応伝の第四に云わく「法華の行を受けて二七日境界す」文。止観の一に云わく「この止観は、天台智者、己心の中に行ずるところの法門を説く」文。弘決の五に云わく「故に、止観の『正しく観法を明かす』に至って、ならびに三千をもって指南となす○故に、序の中に『己心の中に行ずるところの法門を説く』と云えり」文。己心に行ずるところの法とは、一念三千・一心三観なり。三諦・三観の名義は瓔珞・仁王の二経に有りといえども、一心三観・一念三千等の己心に行ずるところの法門をば、迹門の十如実相の文を依文