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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

とは黒なり。父母未生已前をたずぬれば、あるいは元気よりして生じ、あるいは貴賤・苦楽・是非・得失等は皆自然なり等云々。
 かくのごとく巧みに立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず。玄とは黒なり、幽なり、かるがゆえに玄という。ただ現在ばかりしれるににたり。現在において仁・義を制して、身をまぼり、国を安んず。これに相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう。これらの賢聖の人々は、聖人なりといえども、過去をしらざること凡夫の背をみず、未来をかがみざること盲人の前をみざるがごとし。ただ現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば、傍輩もうやまい、名も国にきこえ、賢王もこれを召してあるいは臣となし、あるいは師とたのみ、あるいは位をゆずり、天も来って守りつかう。いわゆる、周の武王には五老きたりつかえ、後漢の光武には二十八宿来って二十八将となりし、これなり。しかりといえども、過去・未来をしらざれば、父母・主君・師匠の後世をもたすけず、不知恩の者なり。まことの賢聖にあらず。
 孔子が「この土に賢聖なし。西方に仏図という者あり。これ聖人なり」といいて、外典を仏法の初門となせし、これなり。礼楽等を教えて、内典わたらば戒・定・慧をしりやすからせんがため、王臣を教えて尊卑をさだめ、父母を教えて孝の高きことをしらしめ、師匠を教えて帰依をしらしむ。妙楽大師云わく「仏教の流化、実にここに頼る。礼楽前に駆せて、真道後に啓く」等云々。
 天台云わく「金光明経に云わく『一切世間のあらゆる善論は、皆この経に因る。もし深く世法を識らば、即ちこれ仏法なり』と」等云々。止観に云わく「我、三聖を遣わして、彼の真丹を化す」等云々。