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つさんがために、そのぜんをそしる。「一事の中において、あるいは呵め、あるいは讃む」という、これなり。大論の四悉檀の中の対治悉檀、またこれおなじ。浄名経の弾呵と申すは、阿含経の時ほめし法をそしるなり。
これらをもっておもうに、あるいは衆生多く小乗の機あれば大乗を謗って小乗経に信心をまし、あるいは衆生多く大乗の機なれば小乗経をそしりて大乗経に信心をあつくす。あるいは衆生弥陀仏に縁あれば諸仏をそしりて弥陀に信心をまさしめ、あるいは衆生多く地蔵に縁あれば諸の菩薩をそしりて地蔵をほむ。あるいは衆生多く華厳経に縁あれば諸経をそしりて華厳経をほむ。あるいは衆生大般若経に縁あれば諸経をそしりて大般若経をほむ。あるいは衆生法華経、あるいは衆生大日経等、同じく心うべし。機を見て、あるいは讃め、あるいは毀る。共に謗法とならず。しかるを、機をしらざる者、みだりに、あるいは讃め、あるいは呰るは、謗法となるべきか。例せば、華厳宗・三論・法相・天台・真言・禅・浄土等の諸師の諸経をはして我が宗を立つるは、謗法とならざるか。
難じて云わく、宗を立つるに諸経・諸宗を破し、仏菩薩を讃むるに仏菩薩を破し、他の善根を修せしめんがためにこの善根をはする、くるしからずば、阿含等の諸の小乗経に華厳経等の諸大乗経をはしたる文ありや。華厳経に法華・大日経等の諸大乗経をはしたる文、これありや。
答えて云わく、阿含の小乗経に諸大乗経をはしたる文はなけれども、華厳経には二乗・大乗・一乗をあげて二乗・大乗をはし、涅槃経には諸大乗経をあげて涅槃経に対してこれをはす。密厳経には「一切経の中の王なり」ととき、無量義経には「四十余年にはいまだ真実を顕さず」ととかれ、阿弥
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(029)顕謗法抄 | 弘長2年(’62) | 41歳 |