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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

本国にはその義なし。
 問うて云わく、諸宗の異義区なり。一々にその謂れありて、得道をなるべきか。また、諸宗、皆謗法となりて、一宗ばかり正義となるべきか。
 答えて云わく、異論・相違ありといえども、皆得道なるか。仏の滅後四百年にあたりて、健駄羅国の迦弐色迦王、仏法を貴み、一夏、僧を供し仏法をといしに、一々の僧、異義多し。この王不審して云わく「仏説は定めて一ならん」と。終に脇尊者に問う。尊者答えて云わく「金杖を折って種々の物につくるに、形は別なれども金杖は一なり。形の異なるをば諍うといえども、金たることをあらそわず。門々不同なれば、いりかどをば諍えども、入る理は一なり」等云々。また求那跋摩云わく「諸論各端を異にすれども、修行せば理に二無し。偏執せば是非有り。達せば違諍無し」等云々。また、五百羅漢の真因各異なれども、同じく聖理をえたり。大論の四悉檀の中の対治悉檀、摂論の四意趣の中の衆生意楽意趣、これらは、この善を嫌いこの善をほむ。檀・戒・進等、一々にそしり一々にほむる、皆得道をなる。これらをもってこれを思うに、護法・清弁のあらそい、智光・戒賢の空・中、南三北七の頓・漸・不定、一時・二時・三時・四時・五時、四宗・五宗・六宗、天台の五時・華厳の五教、真言教の東寺・天台の諍い、浄土宗の聖道・浄土、禅宗の教外・教内、入り門は差別せりというとも、実理に入ることはただ一なるべきか。
 難じて云わく、「華厳の五教、法相・三論の三時、禅宗の教外、浄土宗の難行・易行、南三北七の五時等、門はことなりといえども、入る理は一にして皆仏意に叶い謗法とならず」といわば、謗法とい