48ページ
答にも及ばず、口を閉ずること鼻のごとし。華厳宗の五教、法相宗の三時、三論宗の二蔵三時の所立を破し了わんぬ。ただ自宗を破らるるのみにあらず、皆謗法の者なることを知る。同二十九日、皇帝勅宣を下してこれを詰る。十四人、謝表を作って帝皇に捧げ奉る。その後、代々の皇帝、叡山の御帰依は孝子の父母に仕うるに超え、黎民の王威を恐るるに勝れり。ある御時は宣命を捧げ、ある御時は非をもって理に処す等云々。殊に清和天皇は叡山の恵亮和尚の法威に依って位に即き、帝皇の外祖父・九条右丞相は誓状を叡山に捧ぐ。源右将軍は清和の末葉なり。鎌倉の御成敗、是非を論ぜず叡山に違背せば、天命恐れ有るものか。
しかるに、後鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼その身に入って国中の上下を狂惑し、代を挙げて念仏者と成り、人ごとに禅宗に趣く。存外に山門の御帰依浅薄なり。国中の法華・真言の学者、棄て置かれ了わんぬ。故に、叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社、国中守護の諸大善神、法味を餐わずして威光を失い、国土を捨て去り了わんぬ。悪鬼便りを得て災難を至し、結句、他国よりこの国を破るべき先相、勘うるところなり。
また、その後、文永元年甲子七月五日、彗星東方に出で、余光大体一国等に及ぶ。これまた世始まってより已来無きところの凶瑞なり。内外典の学者も、その凶瑞の根源を知らず。予、いよいよ悲歎を増長す。しかるに、勘文を捧げてより已後九箇年を経て、今年後正月、大蒙古国の国書を見るに、日蓮が勘文に相叶うこと、あたかも符契のごとし。
仏、記して云わく「我滅度して後一百余年を経て、阿育大王世に出で、我が舎利を弘めん」。周の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
---|---|---|---|
(004)安国論御勘由来 | 文永5年(’68)4月5日 | 47歳 | 法鑑房 |