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問うて云わく、光宅の法雲法師ならびに道場の慧観等の碩徳は、法華経をもって第四時の経と定め、無常の熟蘇味と立つ。天台智者大師は法華・涅槃は同味なりと立つといえども、また捃拾の義を存す。二師共に権化なり、互いに徳行を具せり。いずれを正として我らが迷心を晴らすべきや。
答えて曰わく、たとい論師・訳者たりといえども、仏の教えに違して、権実二教を判ぜずんば、しばらく疑いを加うべし。いかにいわんや、唐土の人師たる天台・南岳・光宅・慧観・智儼・嘉祥・善導等の釈においてをや。たとい末代の学者たりといえども、「法に依って人に依らざれ」の義を存して、本経・本論に違わずんば、信用を加うべし。
問うて云わく、涅槃経の第十四巻を開きたるに、五十年の諸大乗経を挙げて前四味に譬え、涅槃経をもって醍醐味に譬う。諸大乗経は涅槃経より劣ること百千万倍なりと定め了わんぬ。その上、迦葉童子の領解に云わく「我、今日より始めて正見を得たり。これよりの前は我らことごとく邪見の人と名づく」と。この文の意は、涅槃経より已前の法華等の一切の衆典を皆「邪見」と云うなり。当に知るべし、法華経は邪見の経にして、いまだ正見の仏性を明らめざるなり。故に、天親菩薩の涅槃論に諸経と涅槃との勝劣を定むる時、法華経をもって般若経に同じて、同じく第四時に摂めたり。あに正見の涅槃経をもって邪見の法華経の流通とせんや、いかん。
答えて曰わく、法華経の現文を見るに、仏の本懐残すことなし。方便品に云わく「今正しくこれその時なり」。寿量品に云わく「毎に自らこの念を作す。何をもってか衆生をして、無上道に入り、速やかに仏身を成就することを得しめんと」。神力品に云わく「要をもってこれを言わば、如来の一切
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |