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経の菩薩に値い、我らは実経の仏菩薩に値い奉ればなり。
涅槃経に云わく「法に依って人に依らざれ。智に依って識に依らざれ」已上。「法に依って」と云うは、法華・涅槃の常住の法なり。「人に依らざれ」とは、法華・涅槃に依らざる人なり。たとい仏菩薩たりといえども、法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識にあらず。いわんや、法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師においてをや。「智に依って」とは、仏に依る。「識に依らざれ」とは、等覚より已下なり。
今の世の世間の道俗、源空の謗法の失を隠さんがために、徳を天下に挙げて権化なりと称す。依用すべからず。外道は、五通を得て能く山を傾け海を竭くすとも、神通無き阿含経の凡夫に及ばず。羅漢を得、六通を現ずる二乗は、華厳・方等・般若の凡夫に及ばず。華厳・方等・般若の等覚の菩薩も、法華経の名字・観行の凡夫に及ばず。たとい神通・智慧有りといえども、権教の善知識をば用いるべからず。
我ら常没の一闡提の凡夫の法華経を信ぜんと欲するは、仏性を顕さんがための先表なり。故に、妙楽大師云わく「内薫にあらざるよりは、何ぞ能く悟りを生ぜん。故に知んぬ、悟りを生ずること、力は真如に在り。故に、冥薫をもって外護となすなり」已上。法華経より外の四十余年の諸経には、十界互具無し。十界互具を説かざれば、内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば、外の諸仏も顕れず。故に、四十余年の権行の者は仏を見ず。たとい仏を見るといえども、他仏を見るなり。二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し。爾前の菩薩もまた、自身の十界互具を見ざれば、二乗界の成仏を見ず。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |