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故に、涅槃経に云わく「菩薩摩訶薩は、悪象等においては心に怖畏無く、悪知識においては怖畏の心を生ず。何をもっての故に。この悪象等はただ能く身を壊るのみにして、心を壊ること能わず、悪知識は二つともに壊るが故に。この悪象等はただ一身を壊るのみにして、悪知識は無量の善身、無量の善心を壊る。この悪象等はただ能く不浄の臭き身を破壊するのみにして、悪知識は能く浄身および浄心を壊る。この悪象等は能く肉身を壊り、悪知識は法身を壊る。悪象に殺されては三趣に至らず、悪友に殺されては必ず三趣に至る。この悪象等はただ身の怨となるのみにして、悪知識は善法の怨とならん。この故に、菩薩は、常に当に諸の悪知識を遠離すべし」已上。
請い願わくは、今の世の道俗、たといこの書を邪義なりと思うといえども、しばらくこの念を抛って十住毘婆沙論を開き、その難行の内に法華経の入・不入を撿え、選択集の「準之思之」の四字を案じて後に、是非を致せ。謬って悪知識を信じ、邪法を習い、この生を空しゅうすることなかれ。
第三に、正しく末代の凡夫のための善知識を明かさば、
問うて云わく、善財童子は五十余の知識に値いき。その中に普賢・文殊・観音・弥勒等有り。常啼・班足・妙荘厳・阿闍世等は、曇無竭・普明・耆婆・二子・夫人に値い奉って生死を離れたり。これらは皆、大聖なり。仏、世を去っての後、かくのごときの師を得ること難しとなす。滅後においてまた竜樹・天親も去りぬ。南岳・天台にも値わず。いかにしてか生死を離るべきや。
答えて曰わく、末代において真実の善知識有り。いわゆる法華・涅槃これなり。
問うて云わく、人をもって善知識となすは常の習いなり。法をもって知識となす証有りや。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |