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もし本論に違して法華・真言等をもって難易の内に入れば、信用に及ばじ。したがって、浄土論註ならびに安楽集を見るに、多分は本論の意に違わず。善導和尚はまた浄土三部経に依って弥陀称名等の一行一願の往生を立つる時、梁・陳・隋・唐の四代の摂論師は総じて一代聖教をもって別時意趣と定む。善導和尚の存念に違するが故に、摂論師を破する時、彼の人を群賊等に譬う。順次往生の功徳を賊むが故に。その所行を雑行と称す。必ず万行をもって往生の素懐を遂ぐるが故に。この人を責むる時に千中無一と嫌えり。この故に、善導和尚も雑行の言の中にあえて法華・真言等を入れず。
日本国の源信僧都は、また叡山第十八代の座主・慈恵大師の御弟子なり。多くの書を造れることは、皆、法華を弘めんがためなり。しかるに、往生要集を造る意は、爾前四十余年の諸経において往生・成仏の二義有り。成仏の難行に対して往生易行の義を存し、往生の業の中において菩提心観念の念仏をもって最上となす。故に、大文第十の問答料簡の中、第七の諸行勝劣門においては、念仏をもって最勝となし、次下に爾前最勝の念仏をもって法華経の一念信解の功徳に対して勝劣を判ずる時、一念信解の功徳は念仏三昧より勝るること百千万倍なりと定めたまえり。当に知るべし、往生要集の意は、爾前最上の念仏をもって法華最下の功徳に対して、人をして法華経に入らしめんがために造るところの書なり。故に、往生要集の後に一乗要決を造って自身の内証を述ぶる時、法華経をもって本意となすなり。
しかるに、源空ならびに所化の衆、この義を知らざるが故に、法華・真言をもって三師ならびに源信破するところの難・聖・雑ならびに往生要集の序の顕密の中に入れて、三師ならびに源信を法華・
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(023)守護国家論 | 正元元年(’59) | 38歳 |