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を帯す。しかれども、他人の妻を犯さず。瞋恚あれども、ものを殺さず。鋤をもって地をすけば、虫自然に四寸去る。愚癡なる故に、我が身初果の聖者と知らず。婆沙論に云わく「初果の聖者は、妻を八十一度一夜に犯す」取意。天台の解釈に云わく「初果、地を耕くに虫四寸離る。道共の力なり」。
第四果の聖者・阿羅漢を無学と云い、また不生と云う。永く見思を断じ尽くして、三界六道にこの生の尽きて後、生ずべからず。見思の煩悩の無きが故なり。
またこの教えの意は、三界六道より外に処を明かさざれば、外の生処有りと知らず、身に煩悩有りと知らず。また、生因なく、ただ灰身滅智と申して、身も心もうせ、虚空のごとく成るべしと習う。法華経にあらずば永く仏になるべからずと云うは、二乗これなり。
この教えの修行の時節は、声聞は、三生〈鈍根〉・六十劫〈利根〉なり。また一類の最上利根の声聞は、一生の内に阿羅漢の位に登ることあり。縁覚は、四生〈鈍根〉・百劫〈利根〉なり。菩薩は、一向凡夫にて見思を断ぜず、しかも、四弘誓願を発し、六度万行を修し、三僧祇・百大劫を経て、三蔵教の仏と成る。仏と成る時、始めて見思を断じ尽くすなり。
見惑とは、一には身見〈また云わく、我見〉、二には辺見〈断見・常見〉、三には邪見〈また云わく、撥無見と〉、四には見取見〈また云わく、劣れるを勝ると謂う見と〉、五には戒禁取見〈また云わく、因にあらざるを因と計し、道にあらざるを道と計する見と〉なり。見惑は八十八有れども、この五つが本にてあるなり。思惑とは、一には貪、二には瞋、三には癡、四には慢なり。思惑は八十一有れども、この四つが本にてあるなり。
この法門は、阿含経四十巻・婆沙論二百巻・正理論・顕宗論・俱舎論につぶさに明かせり。別して俱
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(017)一代聖教大意 | 正嘉2年(’58)2月14日 | 37歳 |