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されば、仏、付法蔵経等に記して云わく「我が滅後に正法一千年が間、我が正法を弘むべき人二十四人、次第に相続すべし」。迦葉・阿難等はさておきぬ、一百年の脇比丘、六百年の馬鳴、七百年の竜樹菩薩等、一分もたがわずすでに出で給いぬ。このこと、いかんがむなしかるべき。このこと相違せば、一経皆相違すべし。いわゆる、舎利弗が未来の華光如来、迦葉の光明如来も、皆妄説となるべし。爾前返って一定となって、永不成仏の諸声聞なり。犬・野干をば供養すとも、阿難等をば供養すべからずとなん。いかんがせん、いかんがせん。
第一の「諸の無智の人有らん」と云うは、経文の第二の「悪世の中の比丘」と第三の「納衣の比丘」の大檀那等と見えたり。したがって妙楽大師は「俗衆」等云々。東春に云わく「公処に向かって」等云々。
第二の法華経の怨敵は、経に云わく「悪世の中の比丘は、邪智にして心諂曲に、いまだ得ざるを謂って得たりとなし、我慢の心は充満せん」等云々。涅槃経に云わく「この時、当に諸の悪比丘有るべし乃至この諸の悪人、またかくのごとき経典を読誦すといえども、如来の深密の要義を滅除せん」等云々。止観に云わく「もし信無くば、高く聖境を推して、己が智分にあらずとす。もし智無くば、増上慢を起こし、己仏に均しと謂う」等云々。
道綽禅師が云わく「二に理は深く解は微かなるに由る」等云々。法然云わく「諸行は機にあらず、時を失う」等云々。記の十に云わく「恐らくは、人謬って解せる者、初心の功徳の大なることを識らずして、功を上位に推り、この初心を蔑る。故に、今、彼の行浅く功深きことを示して、もって経力を顕す」等云々。伝教大師云わく「正像やや過ぎ已わって、末法はなはだ近きに有り。法華一乗の
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |