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まさずば、天に日月の無く、国に大王の無く、山河に珠の無く、人に神のなからんがごとくしてあるべきを、華厳・真言等の権宗の智者とおぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々、かつは自らの依経を讃歎せんために、あるいは云わく「華厳経の教主は報身、法華経は応身」、あるいは云わく「法華寿量品の仏は無明の辺域、大日経の仏は明の分位」等云々。雲は月をかくし、讒臣は賢人をかくす。人讒すれば、黄石も玉とみえ、諛臣も賢人かとおぼゆ。今、濁世の学者等、彼らの讒義に隠されて、寿量品の玉を翫ばず。また天台宗の人々もたぼらかされて、金石一同のおもいをなせる人々もあり。
仏久成にましまさずば所化の少なかるべきことを弁うべきなり。月は影を慳しまざれども、水なくばうつるべからず。仏、衆生を化せんとおぼせども、結縁うすければ八相を現ぜず。例せば、諸の声聞が初地・初住にはのぼれども、爾前にして自調自度なりしかば、未来の八相をごするなるべし。しかれば、教主釈尊始成ならば、今この世界の梵帝・日月・四天等は、劫初よりこの土を領すれども、四十余年の仏弟子なり。霊山八年の法華結縁の衆、今まいりの主君におもいつかず、久住の者にへだてらるるがごとし。
今、久遠実成あらわれぬれば、東方の薬師如来の日光・月光、西方の阿弥陀如来の観音・勢至、乃至十方世界の諸仏の御弟子、大日・金剛頂等の両部の大日如来の御弟子の諸大菩薩、なお教主釈尊の御弟子なり。諸仏、釈迦如来の分身たる上は、諸仏の所化申すにおよばず。いかにいわんや、この土の劫初よりこのかたの日月・衆星等、教主釈尊の御弟子にあらずや。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |