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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

大小・偏円・半満を簡択すべし」文。玄の三に云わく「広く経論を引いて己義を荘厳す」文。
 そもそも弘法の「法華経は真言より三重の劣、戯論の法にして、なお華厳にも劣る」と云うこと、大日経六巻に供養法の巻を加えて七巻三十一品あるいは三十六品には、いずれの品、いずれの巻に見えたるや。しかのみならず、蘇悉地経三十四品、金剛頂経三巻三品、あるいは一巻に全く見えざるところなり。また大日経ならびに三部の秘経には、いずれの巻、いずれの品にか十界互具これ有りや。すべて無きなり。法華経には事理共に有るなり。いわゆる、久遠実成は事なり、二乗作仏は理なり。善無畏等の理同事勝は臆説なり。信用すべからざるものなり。
 およそ真言の誤り多き中、
 一、十住心に「第八法華、第九華厳、第十真言」云々。いずれの経論に出でたるや。
 一、善無畏の四句と弘法の十住心と、眼前の違目なり。何ぞ師弟敵対するや。
 一、五蔵を立つる時、六波羅蜜経の陀羅尼蔵を何ぞ必ず我が家の真言と云うや。
 一、震丹の人師争って醍醐を盗むと云う。年紀何ぞ相違するや。その故は、開皇十七年より唐の徳宗の貞元四年戊辰歳に至るまで百九十二年なり。何ぞ天台、入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経の醍醐を盗み給うべきや。顕然の違目なり。もししからば、「人を謗じ法を謗ずれば、定めて阿鼻獄に堕ちん」というは自責なるや。
 一、弘法の心経の秘鍵の五分に何ぞ法華を摂むるや。能く能く尋ぬべきことなり。