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「この経もまたかくのごとく、一切の如来の所説、もしは菩薩の所説、もしは声聞の所説、諸の経法の中に、最もこれ第一なり」等云々。
玄の十に云わく「また已今当の説に最もこれ難信難解なりと。前経はこれ已説なり」文。秀句の下に云わく「謹んで法華経法師品の偈を案ずるに、云わく『薬王よ。今汝に告ぐ。我が説くところの諸経、しかもこの経の中において、法華は最も第一なり』と」文。また云わく「当に知るべし。已説は四時の経なり」文。文句の八に云わく「今、法華は法を論ずれば」云々。記の八に云わく「鋒に当たる」云々。秀句の下に云わく「明らかに知んぬ、他宗の依るところの経は、これ王中の王ならず」云々。
釈迦・多宝・十方の諸仏・天台・妙楽・伝教等は、法華経は真実、華厳経は方便なり。「いまだ真実を顕さず」「正直に方便を捨つ」「余経の一偈をも受けざれ」「もし人信ぜずして乃至その人は命終して、阿鼻獄に入らん」云々。弘法大師は、「法華は戯論、華厳は真実なり」云々。いずれを用いるべきや。
宝鑰に云わく「かくのごとき乗々は、自乗に名を得れども、後に望めば戯論と作る」文。また云わく「人を謗じ法を謗ずれば、定めて阿鼻獄に堕ちん」文。記の五に云わく「故に実相の外は皆戯論と名づく」文。梵網経疏に云わく「第十に謗三宝戒、または謗菩薩戒と云い、あるいは邪見と云う。謗はこれ乖背の名なり。絓てこれ解は理に称わず、言は実に当たらずして、異解して説く者を、皆名づけて謗となすなり」文。玄の三に云わく「文証無きは、ことごとくこれ邪偽なり。彼の外道に同じ」文。弘の十に云わく「今の人、他の引くところの経論を信じて、謂って憑み有りとなして、宗の源を尋ねず。謬誤何ぞ甚だしき」文。守護章上の中に云わく「もし説くところの経論の明文有らば、権実・
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(061)真言見聞 | 文永9年(’72)7月 | 51歳 |