ところにあらず、いわんやまた世間暗証の者をや○『けだし如来』より下は称歎なり。十法は既にこれ法華の所乗なれば、この故に、還って法華の文を用いて歎ず。迹の説は、即ち大通智勝仏の時を指してもって『積劫』となし、寂滅道場をば、もって『妙悟』となす。もし本門に約せば、『我は本菩薩の道を行ず』の時を指してもって『積劫』となし、本成仏の時をば、もって『妙悟』となす。本迹二門はただこれこの十法を求悟するのみ。『身子』等とは、寂場にして説かんと欲するに、物の機いまだ宜しからず、その苦に堕せんことを恐れて、さらに方便を施す。四十余年種々に調熟し、法華の会に至って、初めて略して権を開するに、動執生疑して、慇懃に三請す。五千起ち去って、方に枝葉無し。四・一を点示して、五仏章を演べ、上根の人に被るを、名づけて法説となし、中根はいまだ解せざれば、なお譬喩を悕う。下根は器劣にして、また因縁を待つ。仏意聯綿として、この十法に在り。故に十法の文の末に、皆大車に譬えたり。今の文の馮るところ、意ここに在り。惑者はいまだ見ず、なお華厳を指す。ただ華厳円頓の名のみを知って、彼の部の兼帯の説に昧し。全く法華絶待の意を失って、妙教独顕の能を貶挫す。迹本の二文を験えて、五時の説を撿うれば、円極謬らず。何ぞすべからく疑いを致すべけん。この故に結して『正しくここに在るか』と曰う」。
また云わく「初めに華厳を引くは重ねて牒す。初めに引いて現文を示す。前に『心造』と云うは、即ちこれ心具なり。故に『造』の文を引いて、もって心具を証す。彼の経の第十八の中に功徳林菩薩の偈を説いて云わく『心は工みなる画師の種々の五陰を造るがごとく、一切世界の中に法として造らざることなし。心のごとく仏もまたしかなり。仏のごとく衆生もしかなり。心、仏および衆生、この
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(060)八宗違目抄 | 文永9年(’72)2月18日 | 51歳 | (富木常忍) |