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の経説は皆未顕真実なり。これをもって法華経を下さんこと、はなはだ荒量なり。
なお難じて云わく、いかに云うとも、印・真言・三摩耶尊形を説くことは、大日経ほど法華経にはこれ無し。事理俱密の談は真言ひとりすぐれたり。その上、真言の三部経は釈迦一代五時の摂属にあらず。されば、弘法大師の宝鑰には、釈摩訶衍論を証拠として、「法華は無明の辺域、戯論の法」と釈し給えり。ここをもって「法華劣り、真言勝る」と申すなり。
答う。およそ印相・尊形はこれ権経の説にして実教の談にあらず。たといこれを説くとも、権実・大小の差別・浅深有るべし。所以は、阿含経等にも印相有るが故に。必ず法華に印相・尊形を説くことを得ずしてこれを説かざるにあらず、説くまじければこれを説かぬにこそあれ。法華はただ三世十方の仏の本意を説いて、その形がとあるこうあるとは云うべからず。例せば、世界建立の相を説かねばとて法華は俱舎より劣るとは云うべからざるがごとし。
次に、事理俱密のこと。「法華は理秘密、真言は事理俱密なれば勝る」とは、いずれの経に説けるや。そもそも法華の理秘密とは、いかようのことぞや。法華の理とは迹門の開権顕実の理か。その理は真言には分絶えて知らざる理なり。法華の事とはまた久遠実成の事なり。この事また真言になし。真言に云うところの事理は、未開会の権教の事理なり。何ぞ法華に勝るべけんや。
次に一代五時の摂属にあらずと云うこと、これ往古より諍いなり。唐決には「四教有るが故に方等部に摂む」と云えり。教時義には「一切智智は一味の開会を説くが故に法華の摂」と云えり。二義の中に方等の摂というは吉き義なり。所以は、「一切智智は一味」の文をもって法華の摂と云うこと、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(057)真言天台勝劣事 | 文永7年(’70) | 49歳 |