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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

り。また金剛頂経の第一にも中央釈迦牟尼仏と云えり。大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に、大日経をば釈迦の説とも云うべし、大日の説とも云うべし。また毘盧遮那というは天竺の語、大日というはこの土の語なり。釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云う時は、大日は釈迦の異名なり。しかのみならず、旧訳の経に盧舎那と云うをば、新訳の経には毘盧遮那と云う。しかるあいだ、新訳の経の毘盧遮那法身というは、旧訳の経の盧舎那他受用身なり。故に、大日法身というは、法華経の自受用報身にも及ばず。いわんや、法華経の法身如来には、まして及ぶべからず。法華経の自受用身と法身とは、真言には分絶えて知らざるなり。「法と報とを分かたず。二と三とを弁うることなし」と天台宗にもきらわるるなり。したがって華厳経の新訳には「あるいは釈迦と称づけ、あるいは毘盧遮那と称づく」と説けり。故に、大日は、ただこれ釈迦の異名なり。なにしに別の仏とは意得べきや。
 次に法身の説法ということ、いずれの経の説ぞや。弘法大師の二教論には、楞伽経に依って法身の説法を立て給えり。その楞伽経というは釈迦の説にして未顕真実の権教なり。法華経の自受用身に及ばざれば、法身の説法とはいえども、いみじくもなし。この上に、「法は定めて説かず、報は二義に通ず」の二身の有るをば、一向知らざるなり。故に、大日法身の説法というは、定めて法華の他受用身に当たるなり。
 次に、大日無始無終ということ、既に「我は昔道場に坐して四魔を降伏す」とも宣べ、また「四魔を降伏し、六趣を解脱し、一切智智の明を満足す」等云々。これらの文は、大日は始めて四魔を降伏して始めて仏に成るとこそ見えたれ。全く無始の仏とは見えず。また仏に成っていかほどを経ると説