SOKAnetトップ

『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

字を習ってこそ仏にはならせ給いて侍れ。全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給いたりとは見えず。妙法蓮華経は能開なり、南無阿弥陀仏は所開なり。能開・所開を弁えずして、「南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よ」と物知りがおに申し侍るなり。
 日蓮幼少の時、習いそこないの天台宗・真言宗に教えられて、この義を存して数十年の間ありしなり。これ存外の僻案なり。ただし、人師の釈の中に、一体と見えたる釈どもあまた侍る。彼は観心の釈か、あるいは仏の所証の法門につけて述べたるを、今の人弁えずして全体一つなりと思って、人を僻人に思うなり。御景迹あるべきなり。
 念仏と法華経と一つならば、仏の念仏説かせ給いし観経等こそ、如来出世の本懐にては侍らめ。彼をば本懐ともおぼしめさずして法華経を出世の本懐と説かせ給うは、念仏と一体ならざること明白なり。その上、多くの真言宗・天台宗の人々に値い奉って候いし時、このことを申しければ、されば僻案にて侍りけりと申す人これ多し。あえて証文に経文を書いて進らせず候わん限りは、御用いあるべからず。これこそ謗法となる根本にて侍れ。あなかしこ、あなかしこ。
    日蓮 花押