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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

そぎしかども、天台智者大師と申せし末の人、彼の義どもの僻事なる由を立て申せしかば、初めには用いず、後には信用を加えし時、始めて五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えしなり。
 日本国にも、仏法渡って二百余年の間は、異義まちまちにして、いずれを正義とも知らざりしほどに、伝教大師と申す人に破られて、前二百年の間の私義は破られしなり。その時の人々も、当時の人の申すように「いかでか前々の人は一切経ならびに法華経をば見ざるべき。定めて様こそあるらめ」なんど申しあいたりしかども、叶わず。経文に違いたりし義どもなれば、終に破れて止みにき。
 当時もまたかくのごとし。この五十余年が間は、善導の「千中無一」、法然が「捨閉閣抛」の四字等は権者の釈なればゆえこそあるらんと思って、ひら信じに信じたりしほどに、日蓮が法華経のあるいは「悪世末法の時」、あるいは「後の末世において」、あるいは「法をして久しく住せしむ」等の文を引きむかえて相違をせむる時、我が師の私義破れて疑いあえるなり。詮ずるところ、「後の五百歳」の経文の誠なるべきかの故に、念仏者の念仏をもって法華経を失いつるが、還って法華経の弘まらせ給うべきかと覚ゆ。
 ただし、御用心の御ために申す。世間の悪人は魚・鳥・鹿等を殺して世路を渡る。これらは罪なれども、仏法を失う縁とはならず。懺悔をなさざれば、三悪道にいたる。また魚・鳥・鹿等を殺して売買をなして善根を修することもあり。これらは世間には悪と思われて、遠く善となることもあり。仏教をもって仏教を失うこそ、失う人も失うとも思わず、ただ善を修すると打ち思って、またそばの人も善と打ち思ってあるほどに、思わざる外に悪道に堕つることの出来し候なり。当世には、念仏者