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る大菩薩なり。釈尊の過去、因位の御弟子にやあるらん、十方世界の先仏の御弟子にやあるらん、一代教主、始成正覚の仏の弟子にはあらず。
阿含・方等・般若の時、四教を仏の説き給いし時こそ、ようやく御弟子は出来して候え。これもまた、仏の自説なれども正説にはあらず。ゆえいかんとなれば、方等・般若の別・円二教は華厳経の別・円二教の義趣をいでず。彼の別・円二教は教主釈尊の別・円二教にはあらず、法慧等の大菩薩の別・円二教なり。これらの大菩薩は、人目には仏の御弟子かとは見ゆれども、仏の御師ともいいぬべし。世尊、彼の菩薩の所説を聴聞して智発して後、重ねて方等・般若の別・円をとけり。色もかわらぬ華厳経の別・円二教なり。されば、これらの大菩薩は釈尊の師なり。
華厳経にこれらの菩薩をかずえて善知識ととかれしはこれなり。善知識と申すは、一向師にもあらず一向弟子にもあらずあることなり。蔵・通二教はまた別・円の枝流なり。別・円二教をしる人、必ず蔵・通二教をしるべし。人の師と申すは、弟子のしらぬ事を教えたるが師にては候なり。例せば、仏より前の一切の人天・外道は二天三仙の弟子なり。九十五種まで流派したりしかども、三仙の見を出でず。教主釈尊も、かれに習い伝えて外道の弟子にてましませしが、苦行・楽行十二年の時、苦・空・無常・無我の理をさとり出だしてこそ外道の弟子の名をば離れさせ給いて、無師智とはなのらせ給いしか。また人天も大師とは仰ぎまいらせしか。されば、前四味の間は、教主釈尊、法慧菩薩等の御弟子なり。例せば、文殊は釈尊九代の御師と申すがごとし。つねは諸経に「一字も説かず」ととかせ給うもこれなり。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |