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なんど申す謗法こそ、たとい無間大城に堕つるとも、後に必ず生死は離れ侍らんずれ。同じくは今生に信をなしたらば、いかによく候いなん。
問う。世間の念仏者なんどの申す様は、「この身にて法華経なんどを破することは、いかでか候べき。念仏を申すも、とくとく極楽世界に参りて法華経をさとらんがためなり」、また、あるいは云わく「法華経は不浄の身にては叶いがたし。恐れもあり。念仏は不浄をも嫌わねばこそ申し候え」なんど申すはいかん。
答えて云わく、この四・五年のほどは、世間の有智・無智を嫌わず、この義をば「さなんめり」と思って過ぐるほどに、日蓮一代聖教をあらあら引き見るに、いまだこの二義の文を勘え出ださず。詮ずるところ、近来の念仏者ならびに有智の明匠とおぼしき人々の臨終の思うようにならざるは、これ大謗法の故なり。人ごとに、念仏申して浄土に生まれて法華経をさとらんと思う故に、穢土にして法華経を行ずる者をあざむき、また行ずる者も、すてて念仏を申す心は出で来るなりと覚ゆ。謗法の根本この義より出でたり。
法華経こそ、この穢土より浄土に生ずる正因にては侍れ。念仏等は、未顕真実の故に、浄土の直因にはあらず。しかるに、浄土の正因をば極楽にして後に修行すべきものと思い、極楽の直因にあらざる念仏をば浄土の正因と思うこと、僻案なり。浄土門は春沙を田に蒔いて秋米を求め、天月をすてて水月を求むるに似たり。人の心に叶って法華経を失う大術、この義にはすぎず。
次に、不浄念仏のこと。一切の念仏者の師とする善導和尚・法然上人は、他事にはいわれなきこと
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(056)題目弥陀名号勝劣事 | 文永元年(’64) | 43歳 |