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輩は○一向専念」云々。これは十九の願成就の文なり。観無量寿経に云わく「仏、阿難に告げたまわく『汝好くこの語を持て。この語を持つとは、即ちこれ無量寿仏の名を持つ』と」等云々。阿弥陀経に云わく「小善根をもってすべからず乃至一日、七日」等云々。
まず双観経の意は、念仏往生・諸行往生と説けども、一向専念と云って諸行往生を捨て了わんぬ。
故に、弥勒の付嘱には、一向に念仏を付嘱し了わんぬ。観無量寿経の十六観も、上の十五の観は諸行往生、下輩の一観の三品は念仏往生なり。仏、阿難尊者に念仏を付嘱するは、諸行を捨つる意なり。阿弥陀経には双観経の諸行、観無量寿経の前十五観を束ねて小善根と名づけ、往生を得ざるの法と定め畢わんぬ。双観経には念仏をば無上功徳と名づけて弥勒に付嘱し、観経には念仏をば芬陀利華と名づけて阿難に付嘱し、阿弥陀経には念仏をば大善根と名づけて舎利弗に付嘱す。終わりの付嘱は一経の肝心を付嘱するなり。また一経の名を付嘱するなり。三部経には諸の善根多しといえども、その中に念仏は最なり。故に、題目には無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経等と云えり。
釈摩訶衍論・法華論等の論をもってこれを勘うるに、一切経の初めには必ず「南無」の二字有り。梵本をもってこれを言わば、三部経の題目には「南無」これ有り。双観経の「修諸(諸を修す)」の二字に、念仏より外の八万聖教残るべからず。観無量寿経の三福九品等の「大乗を読誦す」の一句に、一切経残るべからず。阿弥陀経の念仏の大善根に対する小善根の語に、法華経等漏るべきや。総じて浄土三部経の意は、行者の意楽に随わんがためにしばらく諸行を挙ぐといえども、再び念仏に対する時は、諸行の門を閉じて捨閉閣抛すること顕然なり。例せば、法華経を説かんがために無量義経を説
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(055)当世念仏者無間地獄事 | 文永元年(’64)9月22日 | 43歳 |