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生に出でたり。
詰って曰わく、この中の意・正の二つはしばらくこれを置く。無記往生はいずれの経論に依って懐感禅師これを書けるや。経論にこれ無くんば信用取り難し。
第四の狂乱往生とは、引証は観経の下品下生の文なり。第一に、悪人臨終の時、妙法を覚れる善知識に値って、覚るところの諸法実相を説かしむるに、これを聞く者、正念存し難く、十悪五逆、諸の不善を具する苦に逼められて妙法を覚ることを得ざれば、善知識、実相の初門たる故に、「称名して阿弥陀仏を念ぜよ」と云うに、音を揚げて唱え了わんぬ。これは苦痛に堪え難くして正念を失う。狂乱の者にあらざるか。狂乱の者、いかでか十念を唱うべき。例せば、正念往生の摂むるところなり。全く狂乱の往生には例すべからず。
しかして、汝等が本師と仰ぐところの善導和尚は、この文を受けて転教口称とは云えども、狂乱往生とは云わず。その上、汝等が昼夜十二時に祈るところの願文に云わく「願わくは、弟子等よ、命終の時に臨んで心顚倒せず、心錯乱せず、心失念せざれ。身心諸の苦痛なく、身心快楽、禅定に入るがごとし」等云々。この中に錯乱とは狂乱か。
しかるに、十悪五逆を作らざる当世の念仏の上人たち、ならびに大檀那等の、臨終の悪瘡等の諸の悪重病ならびに臨終の狂乱は、意を得ざることなり。しかるに、善導和尚は「十即十生」と定め、また「定めて往生を得」等の釈のごときは疑いなきのところに、十人に九人往生すといえども、一人も往生せざれば、なお不審発るべし。いかにいわんや、念仏宗の長者たる善慧・隆寛・聖光・薩生・南
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(055)当世念仏者無間地獄事 | 文永元年(’64)9月22日 | 43歳 |