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林にいたる。一国に跡をとどむべき者にはあらず。されば、天には日月・衆星、変をなす。地には衆夭さかんなり」なんどうったう。堪うべしともおぼえざりしに、またうちそうわざわいと、仏陀にもうちそいがたくてありしなり。人天大会の衆会の砌にて時々呵責の音をききしかば、いかにあるべしともおぼえず。ただあわつる心のみなり。
その上、大の大難の第一なりしは、浄名経の「それ汝に施さば、福田と名づけず。汝を供養せば、三悪道に堕つ」等云々。文の心は、仏菴羅苑と申すところにおわせしに、梵天・帝釈・日月・四天・三界の諸天・地神・竜神等、無数恒沙の大会の中にして云わく「須菩提等の比丘等を供養せん天人は三悪道に堕つべし」。これらをうちきく天人、これらの声聞を供養すべしや。詮ずるところは、仏の御言をもって諸の二乗を殺害せさせ給うかと見ゆ。心あらん人々は仏をもうとみぬべし。されば、これらの人々は、仏を供養したてまつりしついでにこそ、わずかの身命をも扶けさせ給いしか。
されば、事の心を案ずるに、四十余年の経々のみとかれて、法華八箇年の所説なくて御入滅ならせ給いたらましかば、誰の人かこれらの尊者をば供養し奉るべき。現身に餓鬼道にこそおわすべけれ。
しかるに、四十余年の経々をば、東春の大日輪、寒氷を消滅するがごとく、無量の草露を大風の零落するがごとく、一言一時に「いまだ真実を顕さず」と打ちけし、大風の黒雲をまき、大虚に満月の処するがごとく、青天に日輪の懸かり給うがごとく、「世尊は法久しくして後、要ず当に真実を説きたもうべし」と照らさせ給いて、華光如来・光明如来等と、舎利弗・迦葉等を赫々たる日輪、明々たる月輪のごとく鳳文にしるし、亀鏡に浮かべられて候えばこそ、如来の滅後の人天の諸檀那等には仏
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(005)開目抄 | 文永9年(’72)2月 | 51歳 | 門下一同 |