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答う。本分の田地とは何ものぞや。またいずれの経に出でたるぞや。法華経こそ人天の福田なれば、むねと人天を教化し給う。故に、仏を天人師と号す。この経を信ずる者は、己身の仏を見るのみならず過・現・未の三世の仏を見ること、浄頗梨に向かうに色像を見るがごとし。経に云わく「また浄明なる鏡に、ことごとく諸の色像を見るがごとし」云々。
禅宗云わく「是心即仏・即身是仏」。
答えて云わく、経に云わく「心はこれ第一の怨なり。この怨、最も悪となす。この怨、能く人を縛り、送って閻羅の処に到る。汝独り地獄に焼かれて、悪業の養うところとなり、妻子・兄弟等、親属も救うこと能わじ」云々。涅槃経に云わく「願って心の師と作って心を師とせざれ」云々。愚癡・無慙の心をもって「即心即仏」と立つ。あに「いまだ得ざるを得たりと謂い、いまだ証せざるを証せりと謂えり」の人にあらずや。
問う。法華宗の意いかん。
答う。経文に「三十二相を具すれば、乃ちこれ真実の滅ならん」云々。あるいは「速やかに仏身を成就す」云々。禅宗は理性の仏を尊んで「己仏に均し」と思い、増上慢に堕つ。定めてこれ阿鼻の罪人なり。故に、法華経に云わく「増上慢の比丘は、将に大坑に墜ちんとす」と。
禅宗云わく「毘盧の頂上を踏む」。
云わく、「毘盧」とは何者ぞや。もし周遍法界の法身ならば、山川大地も皆これ毘盧の身土なり。これ理性の毘盧なり。この身土においては狗・野干の類いもこれを踏む。禅宗の規模にあらず。もし
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(052)蓮盛抄(禅宗問答抄) | 建長7年(’55) | 34歳 |