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夫れ、「一切衆生は皆仏道を成ぜん」の法華経、「一たび法華経を聞けば、決定して菩提を成ぜん」の妙典、善導が一言に破れて「千中無一」の虚妄の法と成り、無得道教と云われ、平等大慧の巨益は虚妄と成り、多宝如来の「皆これ真実なり」の証明の御言は妄語と成るか。十方諸仏の「上、梵天に至る」の広長舌も破られ給いぬ。三世の諸仏の大怨敵となり、十方如来の成仏の種子を失う大謗法の科、はなはだ重し。大罪報の至り、無間大城の業因なり。
これによって、たちまちに物狂いにや成りけん、所居の寺の前の柳の木に登って、自ら頸をくくりて身を投げ、死し畢わんぬ。邪法のたたり踵を回らさず。冥罰ここに見れたり。最後臨終の言に云わく「この身厭うべし。諸苦に責められ、しばらくも休息なし」。即ち所居の寺の前の柳の木に登り、西に向かい願って曰わく「仏の威神をもって我を取り、観音・勢至来ってまた我を扶けたまえ」と唱え畢わって、青柳の上より身を投げて自絶す云々。三月十七日くびをくくりて飛びたりけるほどに、くくり縄や切れけん、柳の枝や折れけん、大旱魃の堅土の上に落ちて腰骨を打ち折って、二十四日に至るまで、七日七夜の間、悶絶躄地して、おめきさけびて死し畢わんぬ。さればにや、これほどの高祖をば往生の人の内には入れざるらんと覚ゆ。
このこと全く余宗の誹謗にあらず、法華宗の妄語にもあらず、善導和尚自筆の類聚伝の文なり云々。しかも「流れを酌む者はその源を忘れず、法を行ずる者はその師の跡を踏むべし」云々。浄土門に入って師の跡を踏むべくんば、臨終の時善導がごとく自害あるべきか。念仏者として頸をくくらずんば、師に背く咎有るべきか、いかん。
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(051)念仏無間地獄抄 | 建長7年(’55) | 34歳 |