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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

生すべしとすすめたり。
 観無量寿経を所依となして四巻の疏を作る。玄義分・序分義・定善義・散善義これなり。その外、法事讃上・下、般舟讃、往生礼讃、観念法門経、これらを九帖の疏と名づけたり。
 善導念仏し給えば口より仏の出で給うと云って、称名念仏一遍を作すに三体ずつ口より出で給いけりと伝えたり。毎日の所作には阿弥陀経六十巻・念仏十万遍、これを欠くことなし。諸の戒品を持って一戒も破らず。三衣は身の皮のごとく脱ぐことなく、鉢瓶は両眼のごとく身を離さず、精進潔斎す。女人を見ざること一期生、眠らざること三十年なりと自歎す。
 およそ善導の行儀法則を云えば、酒肉五辛を制止して、口に齧まず、手に取らず。未来の諸の比丘もかくのごとく行ずべしと定めたり。一度酒を飲み肉を食らい五辛等を食らい念仏申さん者は、三百万劫が間地獄に堕つべしと禁めたり。善導が行儀法則は本律の制に過ぎたり。法然房が起請文にも書き載せたり。一天四海、善導和尚をもって善知識と仰ぎ、貴賤上下、皆ことごとく念仏者と成れり。
 ただし、一代聖教の大王、三世の諸仏の本懐たる法華の文には「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」と説き給えり。善導は「法華経を行ぜん者は、千人に一人も得道の者有るべからず」と定む。いずれの説に付くべきか。無量義経には念仏をば「いまだ真実を顕さず」とて、実にあらずと言う。法華経には「正直に方便を捨てて、ただ無上道を説くのみ」とて、正直に念仏の観経を捨てて無上道の法華経を持つべしと言う。この両説水火なり。いずれの辺に付くべきや。善導が言を信じて法華経を捨つべきか、法華経を信じて善導の義を捨つべきか、いかん。