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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

 その上、浄土宗には、現在の父たる教主釈尊を捨てて他人たる阿弥陀仏を信ずる故に、五逆罪の咎によって必ず無間大城に堕つべきなり。経に「今この三界は、皆これ我が有なり」と説き給うは、主君の義なり。「その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり」と云うは、父子の義なり。「しかるに今この処は、諸の患難多し。ただ我一人のみ、能く救護をなす」と説き給うは、師匠の義なり。しかして、釈尊付嘱の文にこの法華経をば「付嘱して在ること有らしめん」云々。いずれの機か漏るべき。誰人か信ぜざらんや。しかるに、浄土宗は、主師親たる教主釈尊の付嘱に背いて、他人たる西方極楽世界の阿弥陀如来を憑む故に、主に背けり。八逆罪の凶徒なり。違勅の咎、遁れ難し。即ち朝敵なり。いかでか咎無けんや。次に、父の釈尊を捨つる故に、五逆罪の者なり。あに無間地獄に堕ちざるべけんや。次に、師匠の釈尊に背く故に、七逆罪の人なり。いかでか悪道に堕ちざらんや。
 かくのごとく、教主釈尊は、娑婆世界の衆生には主師親の三徳を備えて大恩の仏にて御坐します。この仏を捨てて他方の仏を信じ、弥陀・薬師・大日等を憑み奉る人は、二十逆罪の咎によって悪道に堕つべきなり。
 浄土三部経とは、釈尊一代五時の説教の内、第三方等部の内より出でたり。この四巻三部の経は、全く釈尊の本意にあらず。三世の諸仏の出世の本懐にもあらず。ただしばらく衆生誘引の方便なるのみ。譬えば、塔をくむに足代をゆうがごとし。念仏は足代なり、法華は宝塔なり。法華を説き給うまでの方便なり。法華の塔を説き給いて後は、念仏の足代をば切り捨つべきなり。しかるに、法華経を説き給いて後に念仏に執著するは、塔をくみ立てて後に足代に著して塔を用いざる人のごとし。あに