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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

との二つは四十二年の説なり。円教の一つは八箇年の説なり。合して五十年なり。この外に法無し。何に由ってかこれに迷わん。衆生に有る時にはこれを三諦と云い、仏果を成ずる時にはこれを三身と云う。一物の異名なり。これを説き顕すを一代聖教と云う。これを開会してただ一つの総の三諦と成す時に成仏す。これを開会と云い、これを自行と云う。また他宗の立つるところの宗々は、この総の三諦を分別して八つとなす。各々に宗を立つるによって、円満の理を闕いて成仏の理無し。この故に余宗には実の仏無きなり。故に、これを嫌う意は、不足なりと嫌うなり。
 円教を取って観ずれば、一切諸法は円融円満して十五夜の月に不足無きがごとく満足し究竟す。善悪をも嫌わず、折節をも撰ばず、静処をも求めず、人品をも択ばず、「一切諸法は皆これ仏法なり」と知りぬれば、諸法に通達す。即ち非道を行ずとも仏道を成ずるが故なり。天・地・水・火・風はこれ五智の如来なり。一切衆生の身心の中に住在して、片時も離るることなきが故に、世間と出世と和合して心中に有って、心の外には全く別の法無きなり。故に、これを聞く時、立ち所に速やかに仏果を成ずること滞り無し。道理至極なり。
 総の三諦とは、譬えば珠と光と宝とのごとし。この三徳有るによって如意宝珠と云う。故に、総の三諦に譬う。もしまた珠の三徳を別々に取り放さば、何の用にも叶うべからず。隔別の方便教の宗々もまたかくのごとし。珠をば法身に譬え、光をば報身に譬え、宝をば応身に譬う。この総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり。これを丸じて一つとなすを総の三諦と云う。この総の三諦は三身即一の本覚の如来なり。