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の法門は鏡の裏に向かうがごとく、自行の観心は鏡の面に向かうがごとし。化他の時の鏡も自行の時の鏡も、我が心性の鏡はただ一つにして替わることなし。鏡を即身に譬え、面に向かうをば成仏に譬え、裏に向かうをば衆生に譬う。鏡に裏有るをば性悪を断ぜざるに譬え、裏に向かう時、面の徳無きをば化他の功徳に譬うるなり。衆生の仏性の顕れざるに譬うるなり。
自行と化他とは得失の力用なり。玄義の一に云わく「薩婆悉達の、祖王の弓を彎き満つるを名づけて力となし、七つの鉄鼓に中り、一つの鉄囲山を貫き、地を洞して水輪に徹るを名づけて用となすがごとし〈自行の力用なり〉。諸の方便教は、力用の微弱なること、凡夫の弓箭のごとし。何となれば、昔の縁は化他の二智を稟けて、理を照らすこと遍からず、信を生ずること深からず、疑いを除くこと尽くさざればなり〈已上、化他〉。今の縁は自行の二智を稟けて、仏の境界を極め、法界の信を起こし、円妙の道を増し、根本の惑を断じ、変易の生を損ず。ただ生身および生身得忍の両種の菩薩のみ、ともに益するのみにあらず、法身と法身の後心との両種の菩薩もまたもってともに益す。化の功広大にして利潤弘深なるは、けだしこの経の力用なり〈已上、自行〉」。自行と化他との力用、勝劣分明なること勿論なり。能く能くこれを見よ。一代聖教を鏡に懸けたる教相なり。
「仏の境界を極む」とは、十如是の法門なり。十界互いに具足して、十界・十如の因果、権実の二智・二境は我が身の中に有って一人も漏るることなしと通達し解了し、仏語を悟り極むるなり。「法界の信を起こす」とは、十法界を体となし、十法界を心となし、十法界を形となしたまえる本覚の如来は我が身の中に有りと信ず。「円妙の道を増す」とは、自行と化他との二つは相即円融の法なれば、
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(049)三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) | 弘安2年(’79)10月 | 58歳 |