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『日蓮大聖人御書全集 新版』全文検索

同四に云わく「しかるに、円頓の教えは本凡夫に被らしむ。もし凡を益するに擬せずんば、仏何ぞ自ら法性の土に住して、法性の身をもって諸の菩薩のためにこの円頓を説かざるや。何ぞ諸の法身の菩薩のために凡身を示し、この三界に現じたもうことを須いんや乃至一心凡に在れば、即ち修習すべし」已上。
 詮ずるところ、己心と仏身と一なりと観ずれば、速やかに仏に成るなり。故に、弘決にまた云わく「一切の諸仏、己心は仏心と異ならずと観じたもうに由るが故に、仏に成ることを得たもう」已上。これを観心と云う。実に己心と仏心と一心なりと悟れば、臨終を礙ぐべき悪業も有らず、生死に留むべき妄念も有らず。「一切法は皆これ仏法なり」と知りぬれば、教訓すべき善知識も入るべからず。思うと思い、言うと言い、なすとなし、儀うと儀う行住坐臥の四威儀の所作は、皆、仏の御心と和合して一体なれば、過も無く障りも無き自在の身と成る。これを自行と云う。
 かくのごとく自在なる自行の行を捨てて、跡形も有らざる無明・妄想なる僻思いの心に住して三世の諸仏の教訓に背き奉れば、冥きより冥きに入り、永く仏法に背くこと、悲しむべし、悲しむべし。只今こそ打ち返し、思い直し、悟り返せば、即身成仏は我が身の外には無しと知りぬ。
 我が心の鏡と仏の心の鏡とは、ただ一つの鏡なりといえども、我らは裏に向かって我が性の理を見ず。故に無明と云う。如来は面に向かって我が性の理を見たまえり。故に、明と無明とはその体ただ一つなり。鏡は一つの鏡なりといえども、向かい様によって明・昧の差別有り。鏡に裏有りといえども、面の障りと成らず。ただ向かい様によって得失の二つ有り。相即融通して一法の二義なり。化他