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身体なり。法界に周遍して一仏の徳用なれば、「一切法は皆これ仏法なり」と説き給いし時、その座席に列なりし諸の四衆・八部・畜生・外道等一人も漏れず、皆ことごとく、妄想の僻目・僻思い、立ち所に散止して、本覚の寤に還って皆仏道を成ず。
仏は寤の人のごとく、衆生は夢見る人のごとし。故に、生死の虚夢を醒まして本覚の寤に還るを、即身成仏とも、平等大慧とも、無分別法とも、皆成仏道とも云う。ただ一つの法門なり。十方の仏土は区に分かれたりといえども、通じて法は一乗なり。方便無きが故に無分別法なり。十界の衆生は品々に異なりといえども、実相の理は一つなるが故に無分別なり。百界千如・三千世間の法門殊なりといえども、十界互具するが故に無分別なり。夢と寤と、虚と実と、各別異なりといえども、一心の中の法なるが故に無分別なり。過去と未来と現在とは三つなりといえども、一念の心中の理なれば無分別なり。
「一切経の語は夢の中の語」とは、譬えば扇と樹とのごとし。「法華経の寤の心を顕す言」とは、譬えば月と風とのごとし。故に、本覚の寤の心の月輪の光は無明の闇を照らし、実相般若の智慧の風は妄想の塵を払う故に、夢の語の扇と樹とをもって寤の心の月と風とを知らしむ。この故に、夢の余波を散じて寤の本心に帰せしむるなり。
故に、止観に云わく「月重山に隠るれば扇を挙げてこれに類し、風大虚に息みぬれば樹を動かしてこれを訓うるがごとし」文。弘決に云わく「真常性の月、煩悩の山に隠る。煩悩は一つにあらず、故に名づけて重となす。円音教の風は化を息めて寂に帰す。寂理無礙なること、なお大虚のごとし。四
題号 | 執筆年月日 | 聖寿 | 対告衆 |
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(049)三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄) | 弘安2年(’79)10月 | 58歳 |